いち看護師の、看護師向いてないわ日記。

看護師してます。日々いろんなことを考えます。考えすぎな生き物だと思います。

看護師向いてない②

 

自分の性格考えた時に、これはもう絶対合ってへんって気づく。

家帰っても、その日のこととか反省したりして、ずっと休まれへん日が続く。

自分が精一杯やったって、あかんときはあかんのに、それをずっと考えてしまう。

そんなの。

わたしそんなに世の中に利用されるために生きてるわけじゃないねんって、早よ気づけや、と思った。

 

自分がやりたいことをやる

って、本とか、周りのいろんな人から、もちろんわたしも色んな人にゆうたし、よく聞く言葉や。

けど、その本質を全く理解できてなかったし、自分が一番その生き方と対極にいた。

 

やりたいことなんて、わからないまま生きてきた。

なにも、自分の思いに従ったことなんか

なかったかも知れなかった。

部活も、別に極めたかったことではない。

受験先も、なにをモチベーションに決めたかなんて全く覚えてないし、絶対なかった。

ただ名前だけで全部決めてた。

周りの大人に褒められるから。

まわりの友達に、一目置いてもらえるから。

 

そんなふうに、100%周りばかり意識して生きてきた人生に、わたしの意思なんてまるでなくて。

だから流れるようにたどり着いた「看護師」という職業にも、

合わない

という事実を受け入れたくなくて、もがいて、たくさん場所を変えてきて、

今それでも、自分が壊れそうで、必死に自分を守ってる。

 

これがわかっただけでも、

わたしにとっては大きな進歩だ。

 

ここから次は、なにをしていくのか、を考えていく。

それでいい。看護師向いてない①

 

ずーっと、ここ10年以上悩んでたこと。

なんでわたしは、こんなにも上手くいかない人生なんやろか、と。

うまくいかないって自分が感じてるってことは、それだけつらくて、苦しいってこと。

もがいて、色々逃げたり、また新たな気持ちで挑戦してみても、やっぱりつらい気持ちになる。

それって、わたしがだめなのかな?

みんなできてることなのに、なんでわたしは無理なんだろ、って。

 

ほんっとに、視野狭くて、全然自分のことちゃんと考えてあげられてなかったけど、

シンプルにそれは

わたしに看護師は合ってない

ってことなんやって気づいた。

 

周りのいろんな人から、今まで何度も、

いい看護師さんやね

看護師めっちゃ合ってるな

言われ続けて、錯覚してた。

そう言われるたびに、そうあらねばと思った。

わたしは、いい看護師さんであり、周りの人のために尽くして、生きていかなきゃ自分の価値がないんだ、それができないなんて、続かないなんて、価値がない人間なんだ、と思い込んでた。

 

まして、何年もかけて看護師になって、

親にはたくさん苦労かけて大学卒業させてもらって、

しんどい新人時代も乗り越えて

とりあえずかけた時間が長すぎた。

そんななかわたしが看護師離脱して、それで熱心になれるもんあったらええけど、そんなんわからへんのに、勇気なんか出されへん。

 

でも、合わんなと思ったら、とことんあかんと思いだす。

だってわたしの特性では、看護師は荷が重い。

気づくん遅い。

けどこれは仕方ない。

わたしが、わたしの性格とか知ろうとしてへんかったから、今まで。

 

とことん真面目に丁寧にやりたいタイプ。

与えられたタスクは全力でやらないとあとで自分が後悔する。

だから、患者さんのナースコールとか、一件の訪問にしても、時間を理由に適当に流すと、あとでめちゃくちゃずっと引きずってまう。

そう、なんでも引きずる。

考えすぎる。

相手の顔色とか希望みて、優先しすぎる。

尽くしすぎるくらい尽くす。

遠慮しがち。

自分を一番ころして、自分にばっかり負荷かけすぎる。

嫌なことあっても、わりと笑って済まそうとして、実は傷ついてる。

相手の嫌な顔みたくないがために、仕事をいつも引き受けてしまう。例外なし。ほんとつらい。

不穏な空気になるのが嫌で、その場にいる人たちに任せれず、全部背負いがち。

 

、、、

こんなの、絶対自分パンクすんねん。

わかんねんこうやって連ねてたらもうそれだけでしんどなってくるもん。

 

なんでこんなに他人の顔色ばっかりみてるのかわからん。これは昔からの癖。

ほんで自分がそうしまくってるのも、ほんまに最近まで全く気づかなかった。

感銘を受けつづけた1週間

最近は、周りの人の優しさにたくさん触れた日々だった。

少しずつ書き留めていきたい。

 

最近誕生日があった。

31歳になった。

もう31だ。人に祝ってもらえる年なんてとうに過ぎた。

なのに、友人たちからはその日に合わせてLINEが来た。いつも連絡を取り合ってる仲なのに、わざわざその日に合わせて連絡をくれる。

「あ、今日は○○ちゃんの誕生日だ。LINEしとこ」と思って、それが行動になって、わたしに伝わって。それだけで、うれしかった。

旦那さん、母親からは、プレゼントをもらった。

誕生日前日は、普段通り「おやすみ」と言って寝た。翌日起きてきたら、リビングの机の上に、きれいに包装されたプレゼントが置かれていた。

その演出も、気持ちも、全部うれしかった。

母親からは、日付指定でプレゼントが郵送されてきた。毎年毎年送ってくれるその年一度の贈り物は、全部わたしの好みのもので、いっぱい店を回って考えてくれたんだろうなと、探してる姿が目に浮かんで泣きそうになる。

周りの人からの好意がとても強く刺さった。その人たちの存在に強く支えられてるなと感じた。

 

 

 

最近結婚式のようなものをした。

それは、自分たちの好きな会場を選んで、写真を撮ってもらい、親族で食事をすると言うだけのこじんまりした式もどき。だけどわたしたちにとってみれば、それはけじめとなる式だった。

会場になった式場は、大規模でも式を執り行っている有名な場所なので、少人数で執り行うわたしたちは、軽視されてしまうのではないか?と少し不安なような申し訳ないような気持ちもあった。でも、結論全くそんなことはなく、関わってくださったみなすべてとっても全力で、すごく心が温かくなった。

 

担当メイクさんも、介添えさんも、前撮りからお世話になったカメラマンさんも、プランナーさんもみんな、わたしたちの気分をあげるべく前向きな素敵な声かけをたくさんくれて、いっぱいもてなしてもらった。

家族との写真もたくさんとってもらえた。

一番は、旦那さんとの自然な様子などもたくさんとってもらえて、すごくうれしかった。

メイクも、カメラも、そのみちのプロに接するってすごく新鮮でいい刺激がもらえた。

自分たちは普段そんな仕事とはまったく関わらない仕事をしているが、いろんな場所で真剣にみんな働いているんだなと感じた。

わたしたちの式は主役はわたしたち、ということをしっかり最後までわきまえてくださる、すごく自然で優しいエスコートをみんなしてくれて、すごいなと感動した。

言葉で表すのはやっぱり難しい。

でも、仕事って本当にいろいろあるなと感じた。

 

 

以前病棟で働いていたとき、看護師さんってこんなに大変なんだね、入院して初めてわかったと言っていた患者さんがいた。というかそういうことを言ってくださる方はたくさんいる。

それと一緒で、普段自分が関わらない場所に行くことで、その場所で必死に咲いている花に気づくことがあるし、そういう世界があることを知る。

やっぱりどの世界にいても、全力で頑張っている人に勝るものはないと思う。

 

 

そして、プロに接するとこちらもわかる、ということ。

この人すごいな。信用できるな。尊敬できるな、ということが、少し関わるだけでもわかるということ。

 

 

わたしも本当にそうなりたい。

腐らずやっていきたい。

自分を、自分が輝けるほうに導きたい。

なんかすごく部屋がニンニクのにおいする

#看護師

 

神戸新聞のニュース、、なんかものすごく憤りを感じたよねって看護師の友達と話してた。

80代の認知症患者のトイレ中、別の患者のナースコールに出て排便介助してたら、その認知症が転んで、その2年後に心不全で死んだ、みたいなニュース。

それで病院相手に裁判起こされて、500万以上損害賠償として払わなきゃならなくなった、県立西宮病院の話。

この判決、世間の人はどう思うんだろう?

看護師として働いてたら、毎日のようにこんな状況はある。なんでこんなことで訴えられなきゃいけないの?それで、病院側の責任になるのはそもそもなんでなの??おかしいでしょ、と考えるのは看護師だからなの???

 

たしかに、この認知症の80代はセンサー対応中であったとのことで、トイレから出てくるときも絶対ナースコール押さないんだろうなっていうのはわかる。でも、他の人のナースコール鳴って、行かなきゃいけない状況になってたら、だれを優先するかなんて裁判長に言われる筋合いないよね。そのとき働いてた看護師が、それぞれの患者の性格とかその看護師の看護観に基づいて動いてる訳なんだから。

それで今回認知症がこけて、結果的に廃用して亡くなったとしてもだよ。それがその人の運命であることには変わりないよね。認知症って、立派な病気なんだから、それに伴って転倒リスクが増えたり、危険にさらされてしまうことは、診断された時点で家族も本人も覚悟しておくべきなんだよ。

認知症だからって四六時中看護師が付き添ってられるわけないのに、現実病棟で働いてる看護師みてよ。認知症もしくは高齢で環境の変化や手術などによるせん妄で暴れたり指示が入らない患者に、常に手がかかる状態でさ、その対応に追われてほかの患者のナースコールになかなかすぐにいってあげられない状況なんて、毎日どの病棟でもみる光景なんだよ。だから、今の看護師は、これでも十分すぎるくらい認知症患者に手を焼いてるわけ。

50代男性が、ふらつきあるのに自分の勝手でナースコールせずに好き勝手動いたりする場合も、同意を得てセンサーつけてさ。センサー反応する度に病室走って見に行ってさ。それでもそいつは逆にこっちに「なんや!」とか怒ってくるわけよだいたい。そんなやつが勝手にトイレに行って勝手にこけてたとしても、そんなこと自業自得だと誰もが思うじゃん。そんなやつの転倒まで防ぐなんて無理な話だよ。自分が自分の意志でやってることなんだから。それにそいつは認知症でも何でもないのに。

センサーが一人増えたら、病棟の忙しさがどんどん倍増していくのに、これから高齢者がどんどんどんどん増えていって、無駄な治療するために入院して、それがセンサーつけられて家族がみれないからって病院に長いこといて、そんな悪循環の中で、認知症が転んだら訴えられるなんて、そんな馬鹿な話・・・。おかしいでしょ。

 

この裁判長が今後ADLが下がって病院でお世話になるときは、排泄はすべておむつにしていただいて、認知症になったら安全ベルトという名の抑制帯をつけたいという希望でよろしいんですね。(^^)

 

日本で看護師をしていて思うのは、高齢者が多すぎますよね、ということ。そして、高齢者に対して無駄に、若年と同じような治療を医者がしすぎだということ。

そんなことしたら、高齢で先も短く予備力もないのに、人生このまま治療中に終わっちゃうじゃん、これから死ぬまで治療を優先して生きていかなきゃいけないじゃん。でもそれは本来、本当にそれを当人たちが希望しているのか?

この治療をしたらどんなふうになるの?どれくらいしんどい治療で、どれくらいの期間入院になるの?抗がん剤治療は外来でもできるって言うけど、パソコンとか打てるの?透析って、週に3回っていうけど、すぐ終わるもんなの?

こういうこまかなことって、医者のどれくらいが、説明して、患者家族が十分に同意して治療を受けてるんだろう?

 

Q.抗がん剤っていろんな種類があって、副作用って吐き気とかでしょ?ご飯が食べれなくなるのはいやだけど、一時期なら、、、。

A.抗がん剤にはさまざまな種類があって、あなたが行う抗がん剤は何クールあります。1クール目は入院にて経過を見て、問題なさそうなら次のクールから外来でも可能です。吐き気などは大概出てくることが多いですが、この抗がん剤はその後遅発性や累積投与量に比例する副作用として、末梢神経障害や味覚異常などが出てくることもあるため、指先の細かな作業をするようなお仕事の場合は、仕事に支障を来すこともある。食べ物の味が、永く戻らないことも考えられます。足がずっとしびれることにより、うまく歩けなくなって、車椅子生活になる可能性もある。

そもそも抗がん剤投与中、クールごとに評価しますが、効いていなければほかの抗がん剤に替えることになる。通常第一選択の抗がん剤がもっとも効くと言われているものになるので、第2、第3選択になればなるほど奏功する可能性は低くなります。また、治療中他臓器に転移する可能性もある。

また、抗がん剤ときくと、投与されるだけとお考えかもしれませんが、吐き気があっても食事をしないと一向に血球回復しないため入院期間が長引いてしまいますし、そもそも社会復帰を目的にしている治療になりますので、しんどいからと言って入院中臥床したままでリハビリなども積極的に行わない姿勢では、ますますPSが落ちてくるばかりです。そのため、食事をしっかりとる、身体を清潔に保つ(なのでしんどくてもシャワーは毎日する)、手洗いうがいも行う、リハビリなどまずは提供されるものに対しては主体的に取り組むなどといったことが必要不可欠です。入院生活は受動的ではだめなのです。夜中に投与する抗がん剤もあります。睡眠が阻害されてしまうかもしれません。末梢神経がしびれることを予防するため、抗がん剤投与中冷やし続けなければならないこともあります。ご自身で副作用対策などをする、それがめんどくさかったりしんどかったりすることもあるなかで、きちんとできると約束して入院生活を送っていただけますか??・・・

 

抗がん剤一つにとっても、ものすごくいろんな説明が必要だと思うし、わたしは抗がん剤治療をしている数々の患者さんを受け持ってきて、自分はこんな治療したくない、こんなに頑張れないと思っています。でもそれは、当事者である患者さんたちも、事前に同じだけの情報があれば、自分で主体的に自分の人生を選ぶことができるし、それが必要だと思う。やると決めたらがんばれるけど、医者に言われた治療をそのまま受けてるだけじゃ、うまくいかないときに周りのせいにする。

結局この治療誰のためのものなの?ということがものすごくある。それって、医療費の無駄遣い、みんなの好きな、税金の無駄遣いじゃないの???

 

この際、もっと医療について見直さないと、老人が増えてどんどん医療費がかさんで、わあ~思った通りかさむわ~で済ませていい問題なのこれは?

どうせ老人たちはもう数年で日本が終わっても自分は関係ないからいいや、的な感じなの???

でもこの社会を見ると本当にそう思ってるんだろうなと感じてしまう。

それならそれで、「なんでわたしの孫産まないの?産んで!!!」とか言う老害は本当に消えたらいいと思う(^^)誰とは言いませんが

有意義な日

今日は充実したいい日だった。

 

2連休1日目。

2連休なだけでテンション上がる。テンアゲで寝坊する。旦那さんのお弁当を手早く作る。そして、ゆるりと、サイレント(ドラマ)をみて泣く。

サイレントというドラマは、単なる恋愛ドラマだと思う人は多いかもしれないけど、ドラマの中でも描写が丁寧で、俳優さんたちの間合いが絶妙で、恋愛のリアルがすごくきれいに描かれてる気がして、みててすごくすき。ていねいさが心地いい。

 

ドラマを見てひとしきり泣いた後、少し人恋しくなって、近くに住む友人に会えるかダメ元で連絡してみると、今日休みが重なって会えることに!!嬉

 

行かなきゃいけなかった免許の書き換えにいってから、友人とカフェして、話したりなくて夕食もともに。

本当に、自分の信じてる人からのことばはなんだって響くし心に残る。自分が考えていることを一生懸命聞いてくれて、共感してもらって、思うところもすごく似てる部分もあって、ああなんか自分は間違ってないんだなと肯定してもらえているような気持ちになれたし、やっぱり友人との時間は本当に大切だなと思った。

 

看護師として臨床で働く以外にも無限に働き方はあると思うし、それを模索し続けている日々。

わたしは今日も、看護師として世のためになる働き方を探すことをあきらめない。

 

友人と夕食をとって、急いで飛び乗った電車に旦那さんが乗っていて、仲良く帰りました。旦那さんの夕食はカップ麺になりました。ごめんなさい。

優しさに涙した日

毎日ほんといろんなことがあるななんでや??

 

今日は救急車を呼んだ日だった。

やっぱり医療者といえど働いている場所が違うと役割もちがうのは当たり前だね。救急隊が来るとやっぱり緊張してしまうし、病院だときた人たちに対して指示通り動いていけばいいわけだけど、これはやばい、病院に行かなきゃ、先生に言わなきゃ、というラインがやっぱ院外だと余計にわかりにくいよね。

 

この前、自分の試験が終わったら旦那さんもわたしも試験が終わりだからお疲れ会したい!我慢してたお酒ものみたいし、ケーキも食べたい!って言ってて。

数日前に試験が終わったけど、自分の仕事などが重なり、なかなかケーキ食べれなかった。

今日家に帰ってきたときに、旦那さんにわがまま言っていい?っていって、

「今日ケーキ食べたい。いまからかいにいきたい泣」

っていったら、冷蔵庫までつれてってくれて、ケーキの箱をみせてくれました・・・。

わたしの大好きなケーキ屋さんのケーキ!食べたいって、前を通る度に指を指してたケーキ・・・。泣

まさか今日買ってきてくれてるとは思わず、本当にびっくりして涙が出た。

疲れてたのもあったし、優しさに触れてうれしかった。

本当に本当にありがとう。

なんでこんなに優しいのかな?というくらい最近優しさにすごく助けられてます。

ケーキおいしかった・・・幸せでした。

 

明日の休みはなにしよう!

雨だけど、勉強のこと考えなくていい休みは幸せだ。

ものすごく毒舌の会。(毎日か?)

今日は?今日も?疲れた・・・。

 

毎日疲れたって言ってる気がする。

でもそんなに疲れることなんかなにもしてないのに。

と振り返ると、いつも気疲れしてるのかな、と思う。人と関わるとやっぱりしんどいよなー。

病棟にいたときは、ほんと忙しすぎて関わる人がほぼ患者さんで、ひたすら目の前のことをこなしてたらよかった時が多かったから、リーダーとか新人ついてる日じゃない限りあんまりスタッフとずっと話すこともなかったし、それはそれで今よりは気疲れ少なかった。

病棟に戻りたい・・・。

これは本当に正直な感想かも。

でも絶対にやっていける自信ない、以前辞めた理由と同じようなことでまた辞めそうだし、夜勤もできない体力持たない。

やり始めて1年くらいは仕事を覚えよう、慣れようと必死で割と楽しくやっていけるけど、そこから先忙しい日々をどう自分の中で楽しく消化していけるかよね。

歯車になるとしんどくて、何も考える暇もないから、この日常をどう楽しくしていこうなんて考える暇ももちろんないし、そんなことを考えないうちに日々が過ぎて、、、

って考えると、業務自体や患者さんと接したりして一番楽しいのは病棟だけど、戻るにはいろんなことを諦めないと無理だな、とも思う。

 

病棟を離れたとき、もうこれからはプライベートな時間を大事にするんだ、と割り切って今のところに転職したから・・・。

それを思い出して今のところでまだふんばれるだけふんばらないとな、と思うわけです。

 

今日は仕事終わりに、義母と3人でご飯に行きましたが、のっけから「赤ん坊の夢見たんやけど!いい話!?」とドンびく内容の会話から始まったのでげんなり。

わたしは高齢者になったことはないので、自分の家族のこの先に思いをはせて期待を込める気持ちはあまりわからないんだけど、それが重いってなぜわからんのだろうか。

まあわかってもらおうというのが無理だよね、他人なんだから。

というかわたしは、最近本当に思うのは、人の話を聞かない人が一番無理だわ、ということ。

これ、あんまり学生の時とかそういう人周りにいなかったし気にならなかったから考えたことなかったけど、びっくりするくらい世の中に多いよね。まず会話が成り立たないからね、こっちの話聞いてないから。今の職場の上司とかね。

 

 

そんな人は決まって高齢者が多い。

まじで幻滅するよ。人の話まず聞けよって。

高齢者が若い人の話聞かない理由って何なんだろう?自分の地位を確立したいから?自分が偉いことを見せつけたいから、とにかく自分の言うことを聞け!的な?それとも、若い人からの意見の方がすごかった場合自分の地位が揺らぐから、それをわかっててあえて発言させない的な?

なんでほんと人の話聞かないんだろう?わたしならいろんな人の意見聞きたいんだけど。でも、人の話聞かない人の意見は真っ先にいらないわ。

 

げんなりしてたときに、前の職場の先輩から「げんき?」のラインとともに花火の動画が送られてきた。うれしかった。花火は、無心になってみれるからすごく癒やされる。

 

わたしは、人の話を聞かない人が嫌いだ。

そして、当人の前ではものすごくおべっか言ってこびへつらうくせに、いなくなったら悪口言うようなうそつきが嫌いだ。

社会人としての礼儀じゃん、といって上司にこびることを強要してくる人、わたしは本当に何歳になっても理解できないし、そんな人間は実力がないし、実力がないからこびるしかないんだな、と思って今日も生きてます。