いち看護師の、看護師向いてないわ日記。

看護師してます。日々いろんなことを考えます。考えすぎな生き物だと思います。

正論はマイノリティ、疎まれるらしい。この日本では。

昨日はひな祭りでした。

子どもがいない結婚3年目夫婦のわたしたちは、特にひな祭りという行事には疎い側ですが、それでも朝から夫は楽しそうだった。

「今日はスーパーで、こんなおいしそうなちらし寿司がある!どれにしようかな。デザートも買いたいね」

わくわくしながらWebでスーパーの広告を見ている夫は、今から出勤しようとしている憂鬱な気分のわたしにとって最大の癒やしでした。

 

いつからだろう。

看護師という仕事を夢見て、看護師になって、病棟で働いて。

毎日、本来の仕事以外の、人間関係や雑務のような業務、いろんな面に嫌気がさして、先日老人施設へ職場をうつしたところなんですが。

どこにいってもしっくりこない。

これがわたしが10年ほど社会で働いてきて思うことです。

 

 

業務自体は、やっぱり病院の方が好き。

いろんな病気に対しての治療を学んだり、自分の技術を磨いていくことができる。

また、人との出会いは最大の醍醐味だと思う。普通に生活していたら出会わないような縁で、看護師と患者として出会う。わたしはそれがすごく好きだった。いろいろな価値観の人と出会い、その方たちが一時的に生活している病棟で関わる。生活に密着した看護師という立場だからこそみせてもらえるいろんな精神面。弱い部分も、強い部分も、いろんな歴史を生きてきた素晴らしい部分も。悩んでいることも、希望としていることも、共有してもらえるうれしさがあり、それがやりがいにつながる。

今まで働いてきて、とても楽しかった。

看護師という仕事は本当にいい仕事だと思う。わたしは、仕事が基本的に好きではないし、悩みと言えばここ10年ずっと仕事のことで悩んでいるけれど、それでも看護師の仕事はすごく大好きだ。

 

これから、看護師を目指す人はすごくたくさん今もいるだろうけれど、

「すごくつらいこともやるせないこともたくさんあるけれど、それ以上にものすごく楽しくて、世界一いい仕事だと思えるよ」

ということをわたしは伝えたい。

 

 

かくいうわたしは、何を考えているかというと。

もっぱら最近夫と話す内容は、わたしが仕事で悩んでいるときの鉄板で、わたしの職場・仕事に関して。いつもいつも、というか社会で働いている期間ずーっと、わたしは仕事になやんでいて、そのときそばにいた友人・親・今はもっぱら夫に、非常にお世話になっている。本当に、、申し訳ないの一言だ。

 

議題の内容としては、

「正論は悪なのか」

について。

 

 

先日わたしは、職場で上司ともめた。

Aという老人に対しては、腰痛を訴えたその日にすぐ病院受診を決定したにも関わらず、B老人に関しては、3週間ほど前から腰痛の訴えがあったにも関わらず、施設内の往診医(整形分野は専門外)の形ばかりの診察にて処方された湿布薬で対処されているという事案についてである。

施設での病院受診の基準なども明確に定められていないため、そのときの看護師が感覚で判断するといったやりかたが通常であり、施設経験の浅いわたしは、この上記の事案に対して、

「どうしてA老人はすぐに受診し、B老人は原因探索せず対処療法のみなのか」

と上司に問うたところ、なぜか逆鱗に触れたのである。

 

 

痛みとは主観的なものであり、それを他者が計ることはできない。

ただ、日常生活を送っている施設において、数週間にわたって疼痛・苦痛を訴えている老人に対して、画像検査や整形外科専門の医師による診察を受けに行かないでいいという判断は、なにをモットーにして動いているのかわからない。もちろん家族の判断でもない。

もしも老人の医療費削減のために、なるべく受診は減らし、生死に関わるぎりぎりのところで受診するという判断である施設、と決まっているのであれば、その理念に基づいて、A老人の受診はなぜなされたのか不明である。もちろん、そのような理念はない。

 

 

上司から言われた言葉は、以下の通りである。

「人で受診にいくいかないを決めているわけではない。自分がB老人をみたときは、痛くないと言っていた。痛がっているところをみたわけではないので、様子を見ていた」

しかし、複数介護士の記録では、毎日のように労作時疼痛訴えており、痛み止めを内服した経緯まで詳細を追うことができる。

つまり、記録をたどれば痛みの訴えは一目瞭然で、関わった各人々がはそれをそれでいいと判断しているということになる。

これについて、どんなふうにわたしはこれ以上何を言えばいいのかわからなかった。

わたしの看護観と、その人々の看護観の違い、ということなのか?

 

 

帰宅して、夫と3時間ほどその話をしていた。(夫くん・・・本当にいつも付き合ってくれてありがとう。)

わたしは、今まで働いてきて、いつも違和感に思っていたのは組織の在り方だということに気づいた。上司である人の決定において、おかしいと思うことを素直におかしいといえることは、日本ではなかなか難しい。わたしは、そういう社会が本当に嫌だ。本来であれば、複数名いる看護師、みな自分なりに経験を積んできた専門職であるから、自分の意見を活発にいうことが仕事だと思う。上司の顔色を見ながら、いいたいこともいえず、おかしいと思った方針にも従わなければならない状況を甘んじて受け入れるのは、専門職でも何でもない。そこら辺のだれにでもできることだと思う。

 

 

日本人は空気を読みすぎる。

それはわたしは、仕事において本当に必要なのか?とよく思う。

他者を傷つけない空気の読み方は必要だと思う。みんなで楽しく過ごすために、もわかる。だが、仕事場は遊びではない。多少空気が悪くなっても、自分がおかしいと思うことはおかしいといえないと、わたしは仕事としてその人を信頼できない、と思う。

 

 

いつもこの、根本的な日本人気質みたいなところに合わなくて、組織から抜けていく。それがわたしである。

同僚からも、正論を押しつけすぎていると後から指摘があった。

それに関しては、そう感じる人もいるんだなという参考にはなったが、だからといって自分を曲げたいとも思わない。

自分の中で譲れないものを守ることは、自分を守ることだと思うし、夫もそれに賛同してくれた。ただ、そういうわたしみたいな人間は少数であることは事実で、マジョリティの中で疎まれることもまた事実だということも教えられた。実感として感じる部分もある。仕方ない。

 

 

今日はそんなことは忘れて2連休を悠々と過ごしている。

 

同じように考える人たち、または違う意見も含めて、いろいろと意見を活発にやりとりできたらいいなと思って書いてみました。